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水道水フロリデーションの安全性・効果と普及政策:健康格差是正の観点から

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水道水フロリデーションの安全性・効果と普及政策:健康格差是正の観点から

水道水フロリデーションは、公衆衛生施策としての有効性が科学的に実証されているにもかかわらず、日本では未だ導入されていない。本論考では、水道水フロリデーションの安全性と効果に関する科学的エビデンスを整理し、その普及に向けた政策と課題、特に歯科疾患の健康格差是正の観点から考察する。

第一章 水道水フロリデーションの基本概念と歴史的経緯
水道水フロリデーションとは、水道水中のフッ化物イオン濃度をう蝕予防に最適なレベル(0.7-1.0 ppm程度)に調整する公衆衛生施策である。この技術は1945年に米国とカナダの4都市で初めて導入され、その後、オーストラリア、ブラジル、香港、アイルランド、マレーシア、ニュージーランド、シンガポールなど多くの国や地域に広がった。現在、世界では約60カ国で実施され、4億人以上がその恩恵を受けていると推定されている。https://www.tmd.ac.jp/press-release/20230524-1/

日本では1952年に京都市山科地区で試験的に導入され、11年間の実施期間中にう蝕抑制効果が確認されたが、1964年の浄水場拡張工事を機に中止された。また、米軍統治下の沖縄県(1957-1972年)でも実施された経験がある。しかし現在の日本では、一部の地域を除き、水道水フロリデーションは実施されていない。

フッ化物は自然界に広く分布する元素であり、土壌中には平均280ppm、海水中には1.3ppm含まれている8。私たちが日常摂取する水や食品にも微量ながら含まれており、人体にも存在する自然由来の物質である。この自然分布の差異から、地域によっては天然のフッ化物濃度が高い場所もあり、そうした地域の住民のう蝕罹患率が低いことが観察されたことが、水道水フロリデーション開発のきっかけとなった。

第二章 水道水フロリデーションの効果に関する科学的エビデンス
う蝕予防効果の実証
水道水フロリデーションのう蝕予防効果は、数多くの研究によって実証されている。オーストラリアで実施された大規模調査(5-14歳の子ども17,517人を対象)では、水道水フロリデーションが実施されている地域に住む子どもは、実施されていない地域の子どもに比べて、う蝕が平均0.9歯面少ないことが明らかになった。この効果は集団全体で認められ、特に社会経済的に不利な背景を持つ子どもにおいて、より大きな予防効果が示された。https://www.isct.ac.jp/ja/news/6bkepixmkc9s

日本の研究でも同様の傾向が確認されている。東京医科歯科大学の研究グループによる国内の出生コホートデータ分析(34,998人を対象)では、水道水中の天然フッ化物濃度が0.1ppm高い地域に住む子どもは、う蝕治療を受ける割合が3.3%低いことが判明した。具体的には、天然フッ化物濃度が0.10ppm未満、0.10-0.19ppm、0.20-0.29ppm、0.30ppm以上の市区町村でのう蝕治療経験率はそれぞれ35.0%、35.4%、33.4%、32.3%と、濃度の上昇に伴って低下する傾向が見られた。https://www.tmd.ac.jp/press-release/20230524-1/

作用機序
水道水フロリデーションの作用機序は主に3つある:

全身作用:経口的に摂取されたフッ化物が消化管で吸収され、歯の形成期にエナメル質に取り込まれることで、う蝕抵抗性の高い歯が形成される。

局所作用:萌出後の歯の表面に直接作用し、脱灰抑制と再石灰化促進効果を発揮する。

抗菌作用:う蝕原因菌の酸産生能を抑制する。

これらの複合的な作用により、水道水フロリデーションは高いう蝕予防効果を発揮する。特に、他の予防手段へのアクセスが制限されている層に対しても均一に効果が及ぶ点が、公衆衛生施策としての強みである。

第三章 健康格差是正効果
水道水フロリデーションが特に注目される理由の一つは、その健康格差是正効果にある。オーストラリアの研究では、社会経済的に不利な背景を持つ子どもほど、水道水フロリデーションによるう蝕予防効果が顕著に現れることが明らかになった。この傾向は、高所得層が個別の歯科予防サービス(定期検診、フッ化物塗布、シーラントなど)を利用しやすいのに対し、低所得層はそうしたサービスへのアクセスが困難であるため、集団全体をカバーする水道水フロリデーションの相対的効果が大きいためと解釈できる。https://www.isct.ac.jp/ja/news/6bkepixmkc9s

う蝕は世界で最も普遍的な疾患の一つであり、社会経済的に不利な背景を持つ人ほど罹患しやすいことが知られている。日本においても、う蝕に関する健康格差が確認されており、その縮小は国の健康政策における重要な目標の一つとされている。水道水フロリデーションは、こうした格差是正に寄与する可能性が高い施策と言える。

さらに長期的に見ると、子どもの時期のう蝕は、成人後の歯の喪失リスクと強く関連している。新潟大学の調査(605名を10-20年間追跡)によれば、健全歯群に比べ、クラウンなどの修復処置を受けた歯群の喪失率は2.50~8.34倍高かった。これは、う蝕治療によって歯の構造が弱体化し、長期的な歯周組織の防御力低下につながるためと考えられる。したがって、子どものう蝕予防は、単に子どもの時期の口腔健康を守るだけでなく、高齢期まで続く歯の寿命にも影響を与える重要な投資と言える。

第四章 安全性に関する科学的コンセンサス
適正濃度の科学的根拠
水道水フロリデーションの安全性は、70年以上にわたる研究と実践によって確認されている。国際的に認められているフッ化物の至適濃度は約1ppm(100万分の1)で、これは1リットルの水に1mgのフッ化物が含まれる濃度に相当する。WHO(世界保健機関)の水質基準では1.5ppm以下とされているが、日本の水質基準はより厳しく0.8ppm以下と定められている。https://www.jda.or.jp/park/prevent/index05_13.html

この濃度設定は、歯のフッ素症(斑状歯)の発現リスクとう蝕予防効果のバランスを考慮して決定された。歯のフッ素症は、歯の形成期(出生から8歳頃まで)にフッ化物を過剰摂取した場合に発生する可能性があるが、1ppm程度の濃度では審美的に問題となる重度のフッ素症が発生するリスクは極めて低い。

第五章 健康リスクに関する誤解と科学的反証
水道水フロリデーションに対しては、がんの発生率増加や脳への悪影響などを懸念する意見も見られる。しかし、アメリカにおける70年以上の歴史の中で、こうした反対意見が科学的に実証された例は一度もない。数多くの疫学研究が行われているが、適正濃度でのフロリデーションと重大な健康被害との関連性は確認されていない。

歯のフッ素症に関しては、その発生メカニズムが明確に理解されている。エナメル質形成期(特に上顎中切歯では1-3歳が臨界期)に「0.1mg/kg体重/日」以上のフッ化物を毎日摂取すると発症リスクが高まるが、日本のように全身応用が実施されていない国では、通常の使用法であればフッ素症になる心配はまずない。また、フッ素症はエナメル質が完全に形成された後(9歳以降)に過量のフッ化物を摂取しても発生しない。https://shimokita-dental.jp/2022/10/19/%E3%83%95%E3%83%83%E7%B4%A0%E3%81%AE%E5%AE%89%E5%85%A8%E6%80%A7/#3

第六章 有機フッ素化合物との混同への注意
近年問題となっている有機フッ素化合物(PFASなど)と、水道水フロリデーションで使用される無機フッ素化合物は全く異なる物質である。有機フッ素化合物は主に人間が作り出した化学物質で環境中で分解されにくい性質を持つが、歯科で使用するフッ化物は自然界に存在する無機フッ素化合物であり、両者は化学的性質も生体への影響も異なる。この点についての正しい理解が、安全性に関する誤解を解く上で重要である。https://www.jspd.or.jp/recommendation/pdf/202303.pdf

第七章 日本における普及の現状と政策的課題
普及阻害要因
日本で水道水フロリデーションが導入されていない背景には、いくつかの政策的課題が存在する。

第一に、国民の理解不足と誤解がある。フッ化物に対する漠然とした不安や、有機フッ素化合物との混同、個人の選択権の制限への抵抗感などが挙げられる。特に「薬物を強制的に摂取させるもの」という誤った認識(ドイツなどで見られる考え方)が、導入を妨げている側面がある。

第二に、政治的意思の欠如がある。う蝕予防が医療政策全体の中で優先順位が低く、また既存の歯科医療体制(治療中心のシステム)との整合性の問題もある。さらに、実施には厚生労働省、自治体、歯科医師会、水道事業者など多様な関係者の合意形成が必要で、調整コストが高いことも障壁となっている。

第三に、技術的・財政的課題がある。日本の水道システムは非常に分散しており(全国に約1,400の水道事業体)、一律の濃度調整が困難な構造である。また、導入初期の設備投資や継続的なモニタリングコストに対する財政的裏付けも不十分である。https://kelloggniseiblog.com/2025/07/02/%e6%b0%b4%e9%81%93%e7%ae%a1%e8%b7%af%e3%81%ae%e8%80%81%e6%9c%bd%e5%8c%96%e3%81%ae%e7%8f%be%e7%8a%b6%e3%81%a8%e6%b0%b4%e9%81%93%e6%96%99%e9%87%91%e3%81%b8%e3%81%ae%e5%bd%b1%e9%9f%bf%e3%81%ab%e3%81%a4/

第八章 導入推進のための政策提言
水道水フロリデーションを日本で普及させるためには、以下のような段階的アプローチが有効と考えられる。

実証事業の実施:

特定の自治体(特に健康格差が顕著な地域)でパイロット事業を実施し、効果と受容性を検証する

沖縄の過去のデータや京都市山科地区の歴史的データを現代の基準で再評価する

法整備とガイドライン策定:

水道法や歯科保健医療法に関連する規制を整備する

濃度管理やモニタリングの国家的基準を作成する

国民的議論の促進:

科学的エビデンスに基づく正確な情報提供キャンペーンを展開する

反対意見にも丁寧に対応し、懸念事項を解消する公開討論の場を設ける

専門家育成と体制整備:

公衆衛生歯科専門家の養成を強化する

自治体の保健センターと連携した啓発活動を推進する

国際協力の強化:

すでに導入実績のある国(米国、オーストラリアなど)から技術的助言を得る

WHOやFDI(国際歯科連盟)のガイドラインを国内事情に合わせて適応する

特に重要なのは、地域単位での導入可能性を探ることである。全国一斉導入が困難であれば、まずは学校給水システムへの限定導入や、う蝕罹患率が高い特定地域からの段階的拡大など、現実的な選択肢から始めることが考えられる。

第九章 健康格差是正における戦略的意義
水道水フロリデーションは、歯科保健における上流対策(Going upstream)の典型例である。McKinlay(1974)が提唱した「川の上流に向かう」アプローチとは、病気の根本原因に対処する予防策を指す。う蝕に関して言えば、治療が必要になる前に、その発生を防ぐ環境整備が上流対策に該当する。

現在の日本の歯科医療は、主に「下流」で対応する治療中心のシステムである。一方、水道水フロリデーションは、以下の3つの要素を満たす優れた上流対策と言える:

「場」の要素:診療室外(地域全体)を対象とする

「年齢」の要素:病気になる前の子どもを主な対象とする

「健康レベル」の要素:まだ健全な歯を持つ人々の健康維持に焦点を当てる

特に、社会経済的に不利な立場にある子どもたちは、個別の予防歯科サービスへのアクセスが制限されがちである。こうした「予防の落ちこぼれ」を防ぐためには、所得や地域に関係なく全ての人に届く集団的アプローチが不可欠である。

日本の「8020運動」(80歳で20本以上の歯を保つ運動)が目指すべきは、一部の達成者を称えるだけでなく、国民全体の口腔健康水準を底上げすることである。そのためには、治療中心のシステムから予防中心のシステムへの転換が必要で、水道水フロリデーションはその有力な手段となり得る。

第十章 国際比較と日本への示唆
諸外国の導入事例から、日本が学べる点は多い。オーストラリアでは、水道水フロリデーションが国民の90%以上に提供されており、う蝕の大幅な減少と健康格差の縮小に寄与している。米国では1945年の導入以来、う蝕罹患率が著しく低下し、現在も約75%の人口がフロリデーション水を利用している。

一方、欧州ではドイツをはじめ、導入していない国も多い。これは主に、「薬物を集団に強制するのは倫理的でない」という誤った考え方による。ただし、こうした国々でも、フッ化物添加食塩などの代替手段が普及しており、日本とは状況が異なる。

日本の特殊性は、全身応用(水道水フロリデーションやフッ化物添加食塩)がほとんど実施されていない一方で、局所応用(フッ化物配合歯磨剤やフッ化物洗口)が比較的普及している点にある。しかし、局所応用だけでは、適切な使用が難しい低年齢児や、経済的に不利な立場にある家庭の子どもまで効果を行き渡らせることは困難である。

韓国や香港など、日本の近隣アジア地域での成功事例も参考になる。これらの国・地域では、日本のようにフッ化物に対する強い抵抗感がなく、比較的スムーズに導入が進んだ。特に、学校給水システムを活用した限定導入など、地域の実情に合わせた柔軟なアプローチが取られている点が注目される。

第十一章 持続可能な口腔保健を目指して
水道水フロリデーションは、その安全性と効果が科学的に実証されている優れた公衆衛生施策である。特に、以下の点で他の予防手段と比べて優れている:

集団全体への均等なアクセス:所得や地域による格差が生じにくい

持続的な曝露:日常的な水の摂取を通じて、絶えず予防効果が持続する

低コスト高効率:一人当たりの実施コストが低く、費用対効果に優れる

生涯を通じた利益:子どもの時期の予防が、高齢期までの歯の寿命に寄与する

日本における導入に向けては、まずは国民的合意形成が不可欠である。そのためには、科学的エビデンスに基づく冷静な議論の場を設け、誤解や懸念に対処していく必要がある。特に、有機フッ素化合物との混同を解き、適正濃度での安全性を理解してもらうことが重要である。

また、いきなり全国規模で導入するのではなく、特定地域での実証事業から始め、効果と課題を検証しながら段階的に拡大していく現実的なアプローチが望ましい。特に、子どものう蝕罹患率が高く、健康格差が顕著な地域から優先的に導入を検討する価値がある。

超高齢社会の日本において、生涯にわたる口腔健康の基盤を築くためには、子どもの時期からの予防的アプローチが不可欠である。水道水フロリデーションは、単なるう蝕予防策ではなく、健康格差是正と国民全体のQOL向上に寄与する包括的な健康政策として位置付けるべきであろう。今こそ、科学的根拠に基づいた冷静な議論と、将来を見据えた政策的決断が求められている。

その他参考:
https://www.jda.or.jp/park/prevent/index05_13.html(市町村歯科衛生士研修会)
https://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-10901000-Kenkoukyoku-Soumuka/05_2.pdf(厚生労働省)